ムダ堀の話はムダに長いぞ。
やはり現地を歩くことは重要です。
実は、以下のことが良く分かりました。
- すぐ隣接して天然由来と思われる谷が存在する
- そこには、もともと自然河川らしい多摩川の支流が存在していたようである。川の跡、暗渠、開渠などが見られる
さて、これまでムダ堀の存在理由について2つの解釈を持っていました。
- 玉川上水の失敗した掘削である
- 武蔵国の国府である重要拠点である府中を守る外郭要塞の防衛施設
しかし、深い谷と一部が隣接していることで、どちらも説得力がないことに気づきました。
- 上水を引くなら既にある谷地形を利用した方が工事として楽であろう。それと平行して掘る理由が明確ではない (水源の多摩川の水位は支流の水位とどのみち大差ないのだ)
- 崖の上に陣取っていれば既に軍事的に優位であり、わざわざ掘をすぐ近くに用意する防衛上の理由が見えにくい
更に調べていてはたと気づきました。
実は、この谷とムダ堀の解釈が間違っているのではないでしょうか?
これまでムダ堀とされた場所の一部は、実はムダ堀ではなく天然由来の谷ではないでしょうか?
従来の解釈 §
従来の解釈の根拠はおそらく「府中市郷土の森紀要第12号 1999.3 東京都 府中市郷土の森」13ページの以下の図です。
このような推定の根拠になっているのが同じページに掲載されている1883年測量の2万分の1迅速図です。赤と青は私が入れたもので、赤がムダ堀、青が谷と推定される位置です。
これに対して、以下は今昔マップ2の「1/20,000地形図:連光寺(明治39年測図42年製版)」です。これも色は私が入れたものです。赤がムダ堀、青が谷と推定される位置、緑は良く分からないがムダ堀?です。
ということで、1883年測量の2万分の1迅速図にあった西側の堀が存在せず、谷の一部に飲み込まれています。他の年代の地図も同じです。
実際にカシミール3Dで標高を見ていても、谷地形は東府中駅近くまで張り出しています。
考察 §
つまり、1883年測量の2万分の1迅速図にあった西側の堀は以下の2つが考えられます、。
- 地図があまり正確ではない。しょせんは迅速図である
- 堀を埋めたのではなく、谷との境界を切り崩して一体にした
しかし、水の痕跡が感じられる場所であり、全体の高低差もさほど不自然には感じられないので、おそらく前者であるような気がします。
まとめ §
- ムダ堀の位置の推定は間違っている可能性がある
- ムダ堀を玉川上水の失敗と見なすのはやはり地形的に無理がある
- どこからどこまでがムダ堀であるかは、かなり以前から埋め戻しが進んでいたようで、あまりはっきりしない (今後の研究課題)
- ムダ堀の用途もやはり良く分からない (今後の研究課題)